どうして自称功利主義者のくせにアニメの有効利用に牙をむくんだこいつは……
功利主義者じゃないからです→(結論)
(アニメに学ぶなんたらかんたら,というものがむかつく理由に関する自分語り)
自分の場合,前提として,娯楽や芸術において実利的な価値はメインたりえず作品そのものの価値が一番重要なのだという教義を信じている.
お気に入りの作品をNo-butで語るのも,その作品にはそれ自体価値があり,それ以外の要素で毀損されたりはしないのだということを強調し,その作品が最上位の価値を持つのだと言いたいがため.
これは多分に「こんなにクソの役にも立たないものにどうして入れあげるんだ」という内在化された世間への反発という側面を持つ.
また,それ以外の部分で実用第一主義的な立場をとる自分との整合性を保つための理論武装でもある.
で,こういうレトリックのもとで発言することに慣れきってしまっているから,(それがたといプロレスであったとしても)実利的な価値を強くプッシュされると「あれ?作品そのもの価値には言及しないのかな?」と思ってしまう.
めんどくさいよね.気持ち悪いよね.
流れよわが涙,とエクセル方眼紙マンは言った
【雑談】運が7割。選択が1割。残りは努力。
http://d.hatena.ne.jp/sho322/20130209/1360373193
読んで,黙っていられなかったので書き散らす.自分の言ってることは業務基幹系のドメイン限定かもしらん.
要件を制限すればプログラムはシンプルになるんだけど,一定以上の図体を持った基幹システムの開発でそれをやるには相応の理解と調整が必要になる.それを軽視すると,いかに優秀な実装者を以てしても混沌としたシステムが生まれる.
システムの価値を落とさず設計を美しく保つためには,"Keep it simple stupid"を貫くためには,コードを書く以外の作業も必要になる(そして一定以上の規模のシステム開発においてはそれは専任の人間を必要とする量に達する)のだとわかってほしい.当然だけれど,ステークホルダーたちが皆システムの都合ですからと言われてハイそうですかと引き下がってくれるわけではない.
中小規模のプロジェクトに関わるプログラマは割と声がでかいと思うので,大規模プロジェクトで上流をやってる人間にもっともっとソフトウェアエンジニアリングを語ってほしい.無謬からはほど遠くあれども,上流の人間は技術に疎いだけの人間ではない.
雑感
実名報道の件で一部記者がその他世間大勢と違う判断をしており非難にさらされているわけだが,どうしてそこまで判断基準が違ってしまったのだろう,と思う.
○○ムラではないが,属する集団によって個人の判断基準が変わっていくのは当たり前で,故に,誰しも特異な判断基準をもってしまっているはずである.だとすれば,自分が知らず知らずのうちにドライブされている「現場の論理()」とはどのようなものなのだろう?
そして,どうすれば「現場の論理()」は強く/弱くインプリントされるのだろうか?個人の判断基準を「平均的な」それから乖離させてしまう集団の特性はなんなのだろうか?
自分は,新聞記者の給与を牛丼屋のアルバイトと同じまで下げても,新聞記者が牛丼屋のアルバイトと同じように考えるようにはならないような気がしている.似たような給料をもらっている営業と話してさえ,著しい価値観の違いがある.
ビビッドレッド・オペレーション 第1話,第2話
元来ミリタリ要素と美少女キャッキャウフフは両立しない.
一定以上の受容可能性を提示しつつ戦闘美少女ものをやってる作品を顧みると,キャラを犠牲にして「ああ,これは美少女だろうとゴミクズみたいに死ぬんだなぁ」と思い知らせるか,死とそれに起因する要素を犠牲にして「現実じゃないから仕方ない」と思い知らせるか,
の両極があるように思う.
「リアリティ」はあるとかないとかいうよりもおそらく安定していることが重要である.
力量もないのに無理に戦闘と美少女を両立させようとすると,美少女ほのぼのグロが酷い,どいつもこいつも二重人格,というWeb投稿ラノベのごときリアリティ無残を晒すことになる.
吉野弘幸という脚本家は上手い下手は別として意欲的にこのド中央に広がる地雷原を疾駆しようとしてる節がある.ほんとうにもう,舞-HiME以来.
2012年のアニメ個人的ベスト3
今年はデスマ部(仮)の部活動が大変忙しく,アニメを見る本数も減った.文章を書く場はTwitterに移り,140文字を少し超えて文章を書くことも減った.
それでもやはり,かわらず,アニメは面白くある.
1位:戦姫絶唱シンフォギア
クソアニメと名前を挙げられれば憤ってみせ,逆に名前が上がらないと不安になる,中身が無い作品だと言われればそんなことはないと反駁し,3.11へのエールを秘めた作品と称えられればそういう見方をするものではないと窘めてみせる.
そういう微妙な距離感と真直ぐでない愛情をもって,BDとキャラソンとフィギュアと書籍を全て購入している.
他人がどうという立場を離れ,魅力を語るとすれば,シンフォギアが面白いのは音だ.
音質がいいとかじゃなくてセリフでもリズムがいい.真面目くさった書き言葉を喋らせてちょっと外した面白みを見せたとおもいきや,テンポのためなら省略して新語を作ってしまう(例:ちょろくせぇ→ちょせぇ)
打てば響く,阿といえば吽,実に気持ちいタイミングで返答が来る.
音楽に合わせて絵を作る,音楽に合わせて声を作る.だから,音楽に合わせてアニメが出来る.キャラが動く.それが見ていて気持ちがいい.
それにやはり,自分は制作者が好き勝手やって作ったものが好きなのだ.
実際こっ恥ずかしいし馬鹿馬鹿しいアニメではあるだろうけれど,若干の苦味とそれを上回る情緒,尊敬,賞賛を込めてこう言いたい.
「こういうのでいいんだよ,こういうので」
2位:咲-Saki- 阿知賀編 episode of side-A
超能力にはルールがある.いかに強力な能力でもルールを外れて勝つことは出来ない.だから,能力者と相対する者はルールを探し,機転を利かせ,相手の裏をかくしかない.これは能力バトルものの王道であり面白みであり,ジョジョやH×Hのような人気の高い能力バトル作品にみられる共通項でもある.
時に共闘し時に敵対するマルチゲームの中でそういった能力バトルをやるならば,これが面白くないわけがない.
魅力のひとつであった,派手で古臭い演出と,わざとらしい百合スキンシップは1期に比べて控えめとなった(もしくは自分が慣れた)ものの,面白さの根幹をなす能力バトルおよびスポ根の様式美は健在.今後のストーリーは漫画で知っているものの,1月の特別編配信が楽しみ.
3位:PSYCHO-PASS サイコパス
大人向けのハードボイルド風味その実オサレにしかなり得ない雰囲気,わざとらしい古典の引用,情け容赦のない残酷描写.しかし傍から見ればどこか間抜け.
これは紛れもなくProduction I.G.制作のゴンゾアニメである.
ゴンゾは滅びても,スタッフはどこへなといって仕事をしているし,ゴンゾアニメのミームは市場なんぞに淘汰などされていない.それはとても素晴らしく,寿ぐべきことだと思う.
ヒロインがちょっと不細工&ジト目でとても可愛くて虚淵に曇らせられるのと,のり子ガンの音声が情け容赦無いことを丁寧語でいいそうな雰囲気でよろしい(本題).
2011年のアニメ個人的ベスト3
あまりアニメを見ることはできなかったが,年が終わりに差し掛かってみれば,あれもこれも見ていたし面白かったという例年通り.
1位 魔法少女まどか☆マギカ
アートワーク,音楽,脚本,演出,どれも良く出来た2011年の代表作であるけれど,何がそれら以上に自分を惹きつけたかといえば,「美樹さやか」という歳相応に幼稚で潔癖な激情家が確かに存在したことだった.
アニメの出来の善し悪しという緩衝領域を一足飛びに踏み越え,喉元に抜身の「人格(Character)」を突き付けられた.多くを省みるきっかけとなり,そして省みた後は多くのうちの一つになった.
ここ数年で一番の傑作であると思う.
2位 境界線上のホライゾン
すべてのアニメ化は失敗である.
この法則に対して真っ向から立ち向かった素晴らしいアニメ.
原作を読みだして,ようやっとわかった.なんと適切な取捨選択がなされていることか.どれだけ愛情と共に読み込まれていることか.変則的部活アニメとしてどれほど手堅く盛り上げられていることか.
はたして本作はよく出来たアニメ化をされているだろうか,間違いのないアニメ化をされているだろうか.それは私にはわからない.ただ,本作は幸せなアニメ化をされている.
3位 魔乳秘剣帖
どうしようもなかった.
でも,どうしようもないことが救いであったこともあった.
こいつと天下繚乱リプレイとNINJASLAYERとホライゾンのせいで自分の中の日本史が歴史侵略で危ない.
まどかはとんでもないものを盗んでいきました
「まどか☆マギカ」以降,アニメ見る気力が無くなってしまった.作品がOverwhelmingだったのか,震災に端を発する空気と延期がOverwhelmingだったのかはわからない.
ただ,毎週アニメを見て,感想や気づいたことを文章にするエネルギーが自分の中から抜け落ちてしまったように思う.前だったら釣られたような衒学的なアニメ論やオタク論を読み,考え,論ずることができなくなってしまった.今となっては140字の思考で息切れがする.
だから,「Sis puella magica!」を聴いていると,その旋律に強く喪失を意識させられる.